年齢=障害者家族歴な主婦のドタバタのほほん日和

重度自閉症者のきょうだい児として育ち、結婚後は軽度知的障害児二人の母になりました。障害支援分野でNsをやっています ☆

青年期以降の「幼稚な迷惑行為」や「短絡的な犯罪」と「尊重する心」の育成

最近、商業施設で諸々を舐め回すわ・唾つけるわ・使用済みの楊枝を未使用分の入れ物に戻すわ・火をおこしてみるわ・火災報知器作動させて逃げるわで、迷惑行為を仲間内で共有し楽しみ、その延長でSNSを炎上させるという社会問題が起こっていますね。

あと強盗とか通り魔とか、「楽しみを共有する」のレベルを逸した短絡的犯罪も多いように感じます。

このブログは事件やスキャンダルについて言及することはないのですが。。。

なんとなーく長年仕事で感じた危惧をここで訴えてきましたが、若者内でそれを具現化した事件が立て続けに起こるようになってきたなぁ、とニュースを見てヒシヒシと感じております (。-_-。)

 

彼らは当然「やっちゃいけないこと」を分かっていないわけではないんですよね。

親や周囲の身近な大人が「世の中の常識やルール」を教えてくれることはこれまでに多々あっただろうし、幼少期には教育系テレビや知育動画だって普通に見ていただろうし。

だから頭には知識として色々入っているわけで。

 

支援の現場にいると、お子さんが施設のルールに反する行動を何かしらする場面に毎回遭遇します。

スタッフは当然やんわりと咎め、ルールを改めて教えるのですが、相手が口達者なお子さんだと「分かってる」「知ってる」と返事が返ってくることは日常茶飯事です。

でも彼らはしばらくするとまた同様にルールに反する行動をするのです。

そしてなぜそのようなことをしたか問うと、ダンマリして答えない子もいますが、なかには「やってみたかったから」と正直に答える・・・なんて子も普通にいます。

彼らは自分の欲求実現が最優先です。

如何なるものでも「ルール」や「常識」、その先にある「他者」や「社会」よりも大切。

その先にある「尊重する」という行為に、彼らは触れようとしない。

誰もが他者との関わりの中でいつの間にか意識せずともできるようになっているその行為が、彼らは当たり前のようにできないのです。

「いつの間にかできるようになる」前に、その必要性を感じるチャンスをことごとく与えられなかったがのでしょう。

それだけ現代の子どもは他人との関わりが少なく、その気にならなくても簡単に孤立しやすい環境なのです。

少子化も然ることながら、ゲームや動画で一人消化する余暇時間の多さ。

折れたり受け入れたり譲らなければならない等、人間関係の中で普通にあるはずの葛藤経験の少なさ。

幼児期から他人との集団生活をスタートし、友達関係も作れるようになります。

「察してくれる」「譲ってくれる」「調整してくれる」大人とは違う複数の同年代他者と関わることにより、時には自分も我慢し「察し」「譲ってあげ」「調整する」ことを日常的に普通に行う。

周囲にいる他者の人数が多ければ多いほど、また親密な友達以外の子も複数いる場所であれば、その場の平穏を維持し安全で楽しい日々を送るためにルールやマナーに沿った行動を自主的に行い、また他者にもそれを求めるのです。

ときには自分の欲求をコントロールし、ルールやマナー、他者の気持ちに合わせなければならないこともあります。

それは至って普通のことであり、学校生活等を通して子ども時代に積み重ねるべき健全な葛藤体験です。

しかし最近は葛藤そのものが「よろしくないもの」として認識され、個人内に生じた一つ一つをクレームとして批判し無きものにしようとする風潮があります。

健全なものであったとしても、葛藤を生じさせた人間は特にそれが大人や目上の人間だった場合、その人は「悪」であるかのように落とされることもあります。

成長を促す立場は、いまや大きなリスクを抱えるようになり、そんなことしてまで他人を育成する必要性を感じなくなってしまっています。

これにより子どもたちに健全な葛藤経験の欠如が生じ、親密以外の第三者を「尊重する」または「尊重し合う」ことができない人間が増えてきています。

そして彼らはその他大勢の他者への尊重に繋がる経験が少なくなった反面、「尊重してもらう」ことをより多く享受できるようになりました。

それ自体は別に問題でもないのでしょうが、困ったことに彼らは大きくなってもそれを暗に求めてきたりします。

関係性の薄い第三者に「尊重してもらう」ためには、先ずは自分に気づかせた上でその後も継続して注目や意識してもらえるように仕向けなければなりません。

 

迷惑行為をSNSにのせて炎上させる理由に、「承認欲求が強いから」という意見をよく聞きます。

このようななんらかの「欲求」と「常識や社会的ルール」の間にある「自己の行動調整」が、彼らは年相応にできないんだろうな〜と、色々な子を見てきて、まぁ思うわけです。

「理由があってやりたいこと」が「常識や社会のルール」に合わなければ普通だったらやらないし、それは幼児期から日常的に教わり経験し、分かった上で少しずつ体得していくものです。

「常識や社会のルール」に沿いながら、「理由があってやりたいこと」を他者に迷惑をかけず、また認められる形で地道に努力して行えばいいわけで。

それが他者への尊重にも繋がり、良好な対人関係や社会への適応にも繋がります。

そして行く行くは「自己表現」や「自己実現」という欲求の充足にも繋がるわけで。

 

しかし大きくなっても幼稚な迷惑行為や短絡的な犯罪をしてしまう彼らは、子ども時代にたくさんするはずだった「経験や体得」をきちんと得る機会を与えられなかったようです。

頭では「ルールや常識を分かってる」状態であっても、自分自身の行動を調整し「常識やルールに沿って表現・実現する」ことを年相応にはできません。

 

そういえば少し前に、撮り鉄の高校生がJR職員の方にルールやマナーを注意されたことに逆ギレし、電車にイタズラをして遅延させたという事案もありましたね。

趣味の行為をしている自分たちが尊重されないことに腹を立て、してくれなかった組織に向けて報復をする。

これは暗に、自分たちを尊重しなかったことを迷惑行為を見せつけることにより相手が後悔するように仕向けたわけです。

安全や他の利用客を尊重した上でルールやマナーを守るように伝えたJRやその周囲にいる方々のことなど、彼らは考えられなかったのでしょう。

 

ルールなんて知っていようが関係ない。

自分たちの欲求充足がなによりも重要であり、他者への尊重なんて疲れるし面倒でしかない。

そもそも「する必要性」が分からない。

 

困ったことに、この状態を「発達障害だから」として、支援の現場に送り込もうとするケースが多々見受けられます。

先天的な発達障害とは「持って生まれたもの」です。

教えや経験の不十分さから生じる問題行動ではないはずなんですが。。。

いまの子どもたちを取り巻く環境を見ていると、この問題はまだまだ続きそうですね。