ちょっと今更な話題。
夏休みの終わりに、1番っ子は漢字検定試験を受けました。
こちらは学校で申し込みをし、校内で団体受検をするという形で行いました。
受験する級は生徒が各自選択できるとのこと。
ならば「ギリギリ受かれそうな級にしとけばー?」とだけ言って、どの級を受検するかの決定は本人にお任せしました。
1番っ子が選んだのは6級、小学五年生レベルです。
五年生ね、ふむ。
いけるかなー・・・('~'?)
軽度知的障がいは「(適切な形で色々と頑張れば)小学校六年生程度の学力を得ることは可能」と言われています。
1番っ子は幼児期に療育手帳を取得して以来、名目上「更新」として定期的に再判定用検査を受けてきましたが、「グレーゾーン」に引っかかったことすら皆無で義務教育期間を終えました。
次の検査は二十歳になる年度。
その時の検査結果も、知的障害があるという判定ならば、それ以降の「更新」手続きはもう必要ありません。
つまり、「発達や成長により障害の程度が変化する・または消失する可能性がある時期はおしまい=軽度知的障がい持ちってことでほぼ確定」となるです。
「頑張れば小学六年生くらいの学力は身につけられる」能力で、「五年生相当」試験でしょ?
う〜〜〜〜〜〜む。。。
「頑張ってやり抜く」ってなかなかハードル高いよね
勉強好きな子って、ぶっちゃけほぼいないと思うんですよ。
私は看護学生の時に「学ぶことが好き!」という同級生のお友達がいましたが、彼女の成績はやはり入学から卒業までトップでした。
「授業も課題もいっぱいあって、家でも勉強しなきゃいけないことだらけだから楽しい!」って言葉を聞いて仰天したものです。
それ以外の生徒は…全員って訳じゃないかもしれないけど、看護師になる夢を追いながら必死に試験や実習をクリアしようとヒーコラしていましたよ。
最近になってやっと社会的に認知されましたが、看護師界隈で学生の人権など軽視されて当たり前、なんなら踏みにじられることに黙って耐えてこそなんとか使い物になる人材になれるかもね!という時代。
教員からも実習指導者からも当たり前のようにパワハラを施され、それを有難く思って当然、逆に抵抗しようものならお上の方々から夕方に呼び出され個室で一時間以上一方的に人格否定の言葉を浴びさせられ、それを全て肯定する態度で最後まで享受しなければ単位を与えてもらえない、「これが嫌なら看護師になっても役に立たないから学生してても金と時間の無駄だし邪魔。さっさと自分から退学を選べ」と促されることも珍しくない、恐怖政治下でした。
看護師になるための勉強も朝から夜遅くまでしなきゃいけないし=これは当然。
それを無事に卒業までやりきるために、いかに自分がお上の方々からターゲットにされないかを気をつけなきゃいけないという訳の分からん日々を送り、大多数の生徒がノイローゼになっていたものです。
「看護師=心優しい」は幻だって、誰もが確信した現実。
でもトップ独走の彼女は、いつもイキイキ前向きで、元気ハツラツで楽しそうでした。
実習も最終局面で、近々卒業試験と国家試験も控えているという時期に「追い詰められて勉強するのも楽しい!!」って言葉を聞いた時には、「マジもんだ!!その上で真性のドMだね?!」と感心したものです。
「好き」の力って凄いなー。
やっぱりそれは他人から見ても一目瞭然なんですよね。
それでもみんな頑張って卒業し、無事看護師として働き始めることができたわけですが。
それまでに、誰もが何度も挫けそうになったことでしょう。
それでも苦しみながらも達成できたのは、それまでに培ってきた「苦難に直面しても頑張ってやり抜くための土台」があったからなのです。
自己実現と自己抑制
自己実現とは、正に「やりたいことをやる」「なりたい自分になる」。
より良い人生を送るために、とても重要なポイントです。
しかし社会に属して生きていく上で「自己実現のためなら好き勝手やっていい」の精神はいけません。
ダメ、絶対。
自己実現のためにルールやマナーを無視しようものなら、それはただの「迷惑行為」であり、場合によっては組織や社会から「疎外」の対象にされてしまいます。
疎外は孤独を招きます。
「孤独でもいいもん」ならアリなのかもしれませんが、概ねそれはただの強がり。
何故なら「欲求階層」では「自己実現」よりももっと下位、より基本的な段階に「所属や承認の欲求」があるからです。
人は、何かに所属して、そこにいる人達に認めてもらえてこそ、安心して生きていける生き物。
社会生活を送りながら自己実現をするためには、欲求があってもルールやマナーを守った上で満たせるように努めなければ。
この大前提こそが、自己抑制です。
先の看護学生時代の話ですと、学ぶことが好きではない大勢の学生は、「看護師になる」という自己実現のために日々学校に通っていました。
毎日大量の課題を提出し、テストを受け、実習に参加して、学生生活の大半はヘトヘトでノイローゼになって、しょっちゅう誰かが泣いて、その度にみんなで慰め合って過ごしていたものです。
「もうイヤだ」「少しは楽してもいいじゃん?!」と思っていたけど、それでもみんな歯を食いしばって頑張りました。
即ち、単位を落とすほどの欠席や遅刻はしない、授業中に私語や居眠りをしない、課題提出をサボらない、ダメ出しされたらすぐに訂正、何がダメか分からなくても教員や指導者が納得するまで何度でも書き直して提出、テストでカンニングはしない、実技試験に合格するために授業時間外でも帰宅後でもひたすら練習する日々、そんなんだから昼食を食べてたら時間が足りないし万年寝不足!!等など。
何故なら、それをやらねば留年 or 退学=看護師国家試験を受けることすらできなくなる。
自己実現なんて絶対不可能になることがわかっているから、我慢し、ひたすら耐え、何度も繰り返し頑張ったのです。
ちょっとしたズルなら実行は簡単、きちんと考えて慎重にすればバレなかったでしょうね。
でも「ダメだけど適当に楽して、バレなければいいじゃん」はありませんでした。
もう子どもじゃないから、失敗してもやり直しがきく訳じゃないことくらい分かってるから。
それに、誰かに命令されて嫌々でここの学生をやってる訳じゃないし。
自分の意思でここに来たんだ。
だから自分を奮い立たせて、ただ頑張るしかないんだ!
大人になり、社会生活の幅が広がり自己実現への深みが増すほど、自己抑制が必要となる場面も増えていくのです。
自己抑制の四要素
自己抑制には大事なポイントが四つあります。
①遅延可能:やりたいことがあっても「順番・順序を待つ」ができる
②制止・ルールへの従順:「ダメだよ」と言われたら、又は教わったルールに「従う」ことができる
③フラストレーション耐性:思い通りにならない時に、いちいち怒ったり泣いたり騒いだりして自分の要求を通そうとせず、我慢できる
④持続的対処・根気:内心嫌でも「自分の意思で、頑張ってやろうとする」ができる
①は手が汚れてすぐに洗いたくなっても先に水道を使っている人がいれば待つとか、欲しいからって他の子が使っているものを横取りせずに交代を待つ、とか。
②は先生から教わった学校のルールはきちんと守る、とか。
③はいちいち癇癪を起こさないとか八つ当たりしない、とか。
④は日常や社会生活で必要ならば「仕方がない。めんどくさいけどやるか」と取り組んだり、ちょっと不満だったり上手くいかなくてもへこたれずにチャレンジを続けようとする、とか。
例えば宿題だったり、マラソン大会だったり。
小学生時代の私は、球技は大好きだけど器械体操は大っ嫌いだったのですが、鉄棒や跳び箱の授業も(渋々)普通に参加してました。
しかし内心は「早く終わんないかなー」といつも思っていました(笑)。
そしたらなんだかんだで逆上がりくらいはできるようになったし、跳び箱五段まではなんとか跳べるようになっていたっけ。
この四つの要素は、主として幼児期に行きつ戻りつしながら成長すると言われているものです。
二十歳前後の学生たちに当てはめるのはちょっと変かもしれませんね( ᷇ ࿀ ᷆ ;; ナンダヨ~。ヨウジ~?!
しかし子ども時代にこの自己抑制四要素を自己主張スキルと並行して、バランス良く成長するよう促していかないと、大きくなってからが大変なのです。
何故なら④の持続的対処・根気は、「言われたからやるかー」「グチグチ言われるからやめとこ」レベルを卒業し、子ども時代に教わったルールを内在化させ、大きくなってから自分の意思・判断で行動する「自律」の力に繋っていくから。
そして将来的に、集団や組織の中で課題や役割に対処するための「集中」や「努力」をする力にも繋がるらしいです。
ん?!?!
ってことは・・・
看護学生時代にみんなで頑張って卒業できたのは、幼い頃から養ってきた「持続的対処・根気」があったからではなかろうか〜?!\\ ꐕ ꐕ ꐕ ////
(途中で退学した子もいましたが家庭の事情とかやむを得ない理由だったりで、そこは人それぞれで持続的対処・根気について言及するものではないってことであしからず)
毎日精神を追い込んでくれた課題もテストも実習も、根底にコレがあるから乗り越えられた!
「Question.辛くても目標に向かって進み続けられたのは何故?」
⬇
「Answer.元々それをできる基盤があったから」
なのです。
ちなみにパワハラに耐え抜けたのは④持続的対処・根気のおかげではなく、③フラストレーション耐性に関係しているのではないかと。
教職員や指導者から与えられるパワハラは、学生を心身ともに疲弊させ「ここは地獄か?牢獄か?」状態に長期間陥れていました。
(内容は本題と関係ないので省略)
しかし当人方の前でそれに対して「理不尽ひどっ!!」と感情を表出するわけにはいきません。
粛々と受け入れ、「あなた様にパワハラをさせてしまう私が悪いのです。これは崇高なる愛のムチです。ありがたく受けさせていただきます。へへ〜」という態度で縮こまることこそが、当時の看護学生の「あるべき姿」でした。
対人葛藤や対人摩耗の中で「早くこの場から離れたい」という欲求を抑え、解放されるまで感情制御し続けることを可能にしたのは、フラストレーション耐性があったからに他なりません。
その上で、いま流行り(?)の「レジリエンス」(困難にぶつかっても、なんだかんだ社会的に容認される方法で気持ちを切り替えて、環境に適応し続ける力)も、当時の私たちは若いながらにあったのだろうと思います。
まぁ、私のフラストレーション耐性的対応は「標的になったらひたすら耐える」で、レジリエンス手法は「アキちゃんに隙あらばグチグチと不平不満を聞いてもらう」という、地味で迷惑なやり方でしたが。
(アキちゃん、すまなかったね。慰めようと「チョコうまい棒食べな」って奢ってくれたこと、いまでも感謝しているよ)
世の中には良くも悪くも様々な対人関係があり、社会に出ればいつの間にか嫌な渦中に・・・なんてこともあります。
フラストレーション耐性とは、それらに対応するしなやかさの基礎部分なのでしょう。
ちなみに余談ですが、①遅延可能は「対人や集団内での衝動性のコントロール力」、②「制止やルールへの従順」は「同調や協調性」に繋がるっぽいです。
よく療育の現場では「我慢が苦手」というお子さんがいますが、どのタイプの自己抑制が難しいのかを判断できれぱ介入ポイントも見通しを立てやすいですよ。
漢検
何が言いたいかっていうと、「集団や組織の中で個人目標ができた時に、それに向けて集中・努力をする」には、持続的対処・根気が必要ってことです。
目標達成のための精神力を得ようとパワハラのに遭う必要はないし、後になって「実はあれは、私を鍛えようとしてくれていたんだ✧︎*。」と加害者に感謝をする必要もありません(「指導」「間違いを是正してくれた厳しさ」そのものには感謝すべきだと思います。指導する立場にたつと、それをやるのも大変で息苦しさを実感しますよね)。
ただし、自己抑制力は①から④まで互いに作用し合いながら成長していくものなので、持続的対処・根気を育てるためにはフラストレーション耐性や他の成長も必須。。。
そこに「できるだけ落ち着いて適切・直接に、自分の要望を伝える」という自己表現力が加われば、社会との調和や自己実現はいい感じにできるようになるでしょう。
色々小難しそうだけど、幼い頃から地味にコツコツその時々で働きかけて、長い目で育てていくしかありません。
「これを習えば大丈夫!」とか「学校で教えてくれるはず」とか「ゲームや動画鑑賞をしてる時は静かで平和だし、できる限り本人に合わせてあげたいし。そのうち何事もできるようになるだろうからいいでしょ」みたいな大人の希望・ご都合に沿った機関や独自の成長みたいなものはないんですよね。
で、ここに来て1番っ子の漢検6級ですよ。
受かれるかな?
勉強の「勉」の字だって、「カ」の部分を「ム」って何年も書き続けているし。
違うよって教えても全然直らないし。
他にも誤字脱字は結構あります。
中学生時代は各教科の副教材に取り組み、丸つけ&お直しまでして提出するという試練が定期テストの度にありました。
漢字ドリルは毎回提出必須で結構頑張っていたけど、テストではほとんど書けていなかったな(汗)
そういえば中学一年の最初の定期テスト前に、他の生徒と同様に取り組んだ副教材を提出したことについて、とある先生から
「支援級に入ったのだから無理させないで下さい。それで不安定になるくらいなら学力なんて必要ないですよ」
と謎のアドバイスを頂いたことを、今これを書きながら思い出しました。
いまでこそ「教育虐待」という言葉があるけど軽度知的障がい児にもそれを受けているのではないかと疑われる子は実は昔から結構いて、先生はそれを懸念していたのかもしれません。
違うと説明してもすぐに理解していただくことは難しいと当時の私は考えました。
「ワタクシ、分かってる系の親っ(-⊡ω⊡)」風に我が子の対応を取り扱い説明バリに理論的にお話してくださる方にお仕事でお会いすることもありますけど、実際に自分では実行・実現しないで、それでも理論を主張し通そうとする様子を見ると「結局口ばっかりじゃん。そのくせ他人には頑張ってやらせようと無理強いするタイプだよねー。やばい、ターゲットにされないように気をつけなきゃ」と警戒しちゃうからな、私。
と思い、でもそっち系じゃないよ(多分)と証明する術もないしで、申し訳ありませんがその時はとりあえずアドバイスをスルーさせて頂きました。
その後も都度一緒に取り組んで基礎問題レベルはなんとかやりましたが、もちろん学力をあげるためなんかではなかったです。
「取り組む姿勢」を獲得するためで小学生時代からやってきたことだから無理にならないペース配分は分かってましたし。
中学生レベルになっても不安定になること無く、普通に毎日少しずつ取り組めましたよ。
そのおかげか色々あった三年間でしたが、1番っ子が積み重ねていく姿勢を見て味方になってくれる人が段々と増えていったわけで。
話は逸れましたが、どちらにせよ中学時代のテストは散々でした。
やはり頑張っても獲得できる学力は小学生レベル。
そんな人が高学年レベルに受かるかな?ギリだめ?いや、ギリどころか元々ダメ?と一抹の不安が・・・。
しかし義務教育が終わったら、学習を促し横についてマンツーマンで教えてあげるのは辞めようと決めていました。
「各教科の副教材に取り組み、丸つけ&お直しまでして提出する」を三年間やり通させたのは、年相応な②制止・ルールへの従順の感覚を得るため。
「学習を促し(本人が嫌々やっていると分かっていても)横についてマンツーマンで教える」もやり通したのは、③フラストレーション耐性を強くするため。
正直私も疲れたし、それでも横について根気強くマンツーマンでやったからこそら1番っ子は自分の能力以上に頑張り続けたんだと実感できたので。
「もう十分だから」「ここまでやったから」「あとは本人に任せてみよう(自力でなんとかしなはれ)」と腹を括りました。
で、漢検の勉強はしてるの?と夏休み中に何度か当たり障りなく本人に聞いてみると
毎回 (*꒪꒫꒪)( ._.)(*꒪꒫꒪)( ._.)コクコク
と頷きはするのです。
ホントかよー?
高校生になってから勉強してるとこなんて見たことないよー。
てか夏休みの宿題もちゃんとやってんのかよかよー?
と笑って言いましたけど、私は「こやつ、自力でやる気なくね?やっぱり私がついていないと興味がなかったりめんどくさいことはやらないってタイプなの?それって社会人になったらヤバくね?」と内心汗ダラダラでした。
しかし、いざ夏休みがあけてみると宿題も提出してるし(内容は小学生レベルのすごく簡単なものだったので自力で解けたみたいです)、秋には無事「漢検合格」との知らせを聞くことができました。
母さんは何も見てなかったけど、「やるべきことはやり、挑戦・努力できる自分」を涼しい顔して成し遂げていたんだね。
そう、それが日常や社会生活で必要ならば「仕方がない。めんどくさいけどやるか」と取り組んだり、ちょっと不満だったり上手くいかなくてもへこたれずにチャレンジを続けようとする=持続的対処・根気!
世の中から見たら、「たかが夏休みの宿題(超簡単)だし漢検だって6級じゃーん(苦笑)」かもしれないけど、自分で自分の能力を見据え「達成してみせる!」と目標を定めて挑んだ姿勢は、評価して然るべき。
これからの人生を「自分で自分を支える」礎になるはずです。
1番っ子が通う高校は商業系の技能連携校だから、これからも色々な検定試験を受けることでしょう。
母は見えないところから見守るしかしないけど、あまり心配せず本人に任せても良さそうなので安心しました!
まとめ
なんだかんだで子ども時代の勉強って大事。
学力とか知的水準を上げるためだけでなく、もっと根本的な社会性を育むためにもなるのですから。
訓練として考えたら、本人レベルよりもワンランク上の小難しい問題を解けるようになる必要はないし、「なんでできないの?」と教えながらモヤモヤイライラしつつ熱くなることもない。
「取り組む姿」を支え、認めてあげれば良いだけです。
「だけ」と言っても、制止・ルールへの従順やフラストレーション耐性の水準がそもそも低いお子さんだと大変ですが。
でもだからこそ、訓練をする必要があるわけで、大人の希望・ご都合に沿った機関や独自の成長みたいなものはないのならば、親が腹を括って家庭でコツコツやるしかないのです。
どんな教材を使うかは完全自由。
100均のドリルでもいいし、アプリ教材を使ってもいいし。
最近はうんこドリルがアプリまで作ったみたいで、2番っ子に無料のお試し利用してもらいました。
簡単な内容ながらもよくできてて、IQ60台の2番っ子でも活用しやすい教材でした。
最近の子って、アプリ系をあっという間に理解して使いこなせちゃうんだけど、あれは一体なんなんだい?
これから1番っ子については「本人に任せる」をするけど、2番っ子はまだまだ手をかけるつもりだし中学入学を控えてこれからが本番戦!?という感じなので、母もまだまだ頑張らないと!