小学六年生の2番っ子は、軽度知的障がい&自閉症児。
よそ見をしている訳でもないのに周囲のものによくぶつかり、落し物・失くし物も多いので不注意も目立つタイプです。
生活の中で様々な失敗をして、これまで痛い目をたくさん見てきました。
そんな2番っ子ですが現在も失敗を恐れることなく自分を信じて、私も感心してしまうくらいチャレンジ精神を持って前向きに物事に挑んでいます。
今年度は春が終わると直ぐに、二日かけての集団行動的ビッグイベントが待ち構えています。
そう、修学旅行!!
ウン十年前の自分を思い返してみると、当時の私は「めんどくさいな〜」と内心思っていましたが・・・。
目の前にいる2番っ子は、全くそのように感じている様子もなく、ひたすら
ワクワク( ˶>ᴗ<˶)
ワクワクワクワク♪(〃> <〃)
ワクワクワクワクワクワクワクワク☆(≧∀≦*)ノ
連日私にだけでも最低10回は
②「いやー、修学旅行が楽しみすぎる!」
と心境吐露をしておりました。
そりゃあ何よりじゃ( ー́∀ー̀ )ヘイヘイ
前週の日曜には自分で棚の奥から大きいリュックを引っ張り出して、しおりを見ながら荷物の準備を始め (꜆꜄•௰•)꜆꜄꜆»イソイソ
不注意強めなので「きっと入れ忘れがあるハズ」と不安になり、母とダブルチェック・・・
案の定靴下が入っていなかったけど、他はちゃんとしていたので合格でしょう。
②「うえぎ(上着のことだね)と下着は入れたよ!(;ᐙ )︎՞」
と何度もアピールしてたけど、靴下にまでは意識が向かなかったんだね。
やる気が育った❁⃘*.゚
修学旅行が楽しみなのは大いに結構。
しかし事前準備という面倒なものも主体的態度でさっさとこなしてしまうとは、さらに良きかな良きかな。
我が家は何年も前から「自分のことは自分で」を日常の中に多めに設定してきました。
掃除・洗濯・給食当番用割烹着のアイロンがけ・朝ごはんの準備・毎食後の片付け・皿洗い等など。
学用品の準備や買い出しも自分で!
体操着?
週末の上履き洗い?
自分でなんとかせい!!
失敗しても不備があって困っても恥をかいても、なんであっても尻拭いしてあげるから先ずは自分でやれ!!
1番っ子も2番っ子も、低学年の頃から同じようにそんな感じでやってきたので、保護者面談の場で苦言を呈されたこともありました ^^;
「支援が必要なお子さんなんだから、お母さんがきちんとやってやってください」
って (´▽`;) ハハハ、ソリャドーモ
当時の交流用普通級の担任の方から真顔で。
不十分が色々とあったんでしょうね。
何がとかは具体的なものを教えて頂かなかったので今も分かりませんが。
結果、先生に迷惑を掛けてたんだろうなって。
母として大変申し訳なく感じております。
しかしそれに反して本人たちは、何年もかけて困ったり恥をかく経験をして、それなりに学んだみたいです。
おかげさまで、その学びからさらに「困ることなくやりきるにはどうすればいいか」を考えて行動できるようになりました。
そしていまでは「支援が必要なお子さんだから」と何かをしてやるよう提案されることは、皆無になりました。
「自分でやった結果、失敗や恥をかく」の大切さ
文科省のホームページにも躾についてやんわり嫌味(?)が書いてあるくらい、
また、この時期に限らず、家庭における子どもの徳育にかかわる課題として、都市化や地域における地縁的つながりの希薄化、価値基準の流動化等により、保護者が自信を持って子育てに取り組めなくなっている状況がある。さらに小学校低学年の時期においては、こうした家庭における子育て不安の問題や、子ども同士の交流活動や自然体験の減少などから、子どもが社会性を十分身につけることができないまま小学校に入学することにより、精神的にも不安定さをもち、周りの児童との人間関係をうまく構築できず集団生活になじめない、いわゆる「小1プロブレム」という形で、問題が顕在化することが多くなっている。
昨今は学童期になっても「集団生活の中で自分のことすらスムーズにできないタイプ」のお子さんがチラホラ目につきます。
別に日常生活動作に関する知識や技術を身につけられないハンデがある訳でもないのに。
まぁ、今回ここで具体的な例を書くことはしないので、察して頂けると幸いです。
自分で自分の世話をしないで済めば楽だし、大人がやってくれれば本人が失敗と感じたり恥をかくこともありません。
あったとしても「いつも世話役をしている誰かのせい」にできます。
忘れ物をしたと気づくと「お母さんがちゃんと準備してくれなかったから!!」と憤るお子さん、よくいますよね。
幼い子どもの集団があれば、その中には少なからず「取り組みの最初から上手くできなくて困っている子」が居ます。
大抵その子たちは、自分でやろうとしたけど経験値の少なさから手間取っているだけです。
何回かやれば、個人差はあれど普通にできるようになります。
そしてそばで見ている大人(主に先生たち)は、「上手くできなくても頑張ろうとしている子」には気づくものです。
だからその心意気を称え、失敗しても励まし、成功したら一緒に喜んでくれます。
でも子ども同士では「上手くできなくても頑張ろうとしている子」の存在は、なかなか気づかれにくいもの。
なんだったらただの「上手くできない子」とだけ認識され、仲間内でバカにされてしまうことも。
そんななか「自分で自分の世話をしない」「大人にやってもらう」タイプの子は自力でほとんどやらなくてもスムーズに物事が進み、なんの困り感もありません。
なんとなく。。。
「あいつ、ダサくね?それに比べて自分、スゴくね?」
優越感が芽生えたり。。。
でも学童期も半ばにもなると、ほとんどの子が下手なりにもなんだかんだで「自分でやる」を身につけるようになります。
そして「大人の助けが必要な自分」を徐々に卒業していきます。
その過程で「スゴいと思っていた自分」が次第に「思っていたよりスゴくない存在」であると気づくようになり、それに伴い等身大や身の丈の「自分自身」を知るようになるのです。
子ども集団の中で「思っていたよりスゴくない自分」を目の当たりにすると、大なり小なりの残念感や恥がついてきます。
「ヨユーな自分、スゴくね?」は理想の姿。
でも現実は違う。
「理想の自分」と「現実の自分」の違いを目の当たりにした時、イライラすることもあるでしょう。
他の子と比べて悔しさを覚えるかもしれません。
嫌だし辛い。
その気持ちと向き合おうとした瞬間、不安に陥ります。
だから向き合わなくて済むように、他人のちょっとしたミスを大声でバカにしたり、努力しなくてもできることを自分の最大の価値のように公表し同意を求めたりします。
「他の子よりスゴくいられる自分」であるように、他者の価値を下げようとしたり自分に高評価を与えようとするのです。
「寝ないで朝までゲームしてたんだよ。スゴいでしょ?」
「こんなに食べれるなんて、スゴいでしょ?」
「IQ高いから多分ギフテッドだよ。スゴいでしょ?」
「悪いことしたら他の子は怒られるのに、自分だけは何も言われないの。スゴいでしょ?」
「こんなにお年玉をもらって、スゴいでしょ?」
対して大人たちは、自分自身もそれを通過して今があるから、その状態の子を前にしても「ハハーン( ´_ゝ`)」となります。
それとは逆の、不安に向き合いつつも頑張ろうとする子にも気づいてあげられるし、要領悪くても諦めない姿を見守り、時に励まし、その先を一緒に喜んでもあげられます。
気づき、見守り、励まし、喜ぶ。
このやり取りは子どもの「等身大の自分」を受け入れる心を育みます。
みんなの前にいる自分が「理想の自分」じゃなくても恥ずかしくない。
なんなら苦しくても頑張っていてスゴいんだぞ!
「やりたくない時も普通にあるし、せっかくやったのに失敗したり恥をかくこともあった。でも乗り越えて、いつの間にかこんなにできるようになった」
「そんな自分、イイじゃん」
そうなるように。
それは配慮・傾聴・賞賛を強調してもらうことによって得た自己評価ではありません。
経験を糧にして、自力で培った自尊心です。
周囲の評価に惑わされない
ある晩、2番っ子が憤っていました。
②「○○君が支援級の子はバカばっかだから価値がない、みんな死ねって言うんだ。あいつ許さねぇ!!」
あー、いやだねー。そいつはひねくれクソ野郎だねー。
なんて私の心の声を言葉にすることなくウンウン頷いていると
②「支援級の子はみんないい子なんだから!△△さんは喋れないし□□ちゃんは歩けないけど、みんないい子なの!先生だってすごーい優しいんだから!!バカとか死ねとか言うやつがバカだーヽ(*`皿´*)ノキィィ──!!!!」
と力説していました。
我が家は療育手帳を活用してお出かけしまくってきたので、2番っ子は自分が「障害者」であることを分かっています。
1番っ子もそうですが、別に親が教えたとかそういうことはなく、日々の中で自然と気づいたみたいです。
自分で②「2番っ子は障害者だからさ。だから分からないことも多いんだよね」とか言うし。
でもだからといって卑屈になることはありません。
②「障害者だからデイサービス行けるの!だから友達いっぱいできた(*ˊᗜˋ*)」
②「支援級だけの遠足あるの!普通級のも行けるし、超お得 ✧ (°∀°)// ✧」
とかよく言ってます。
四年&五年生の時の担任の先生が2番っ子の初恋の人(配偶者と成人した子供有)でラブラブだったんですが(2番っ子が一方的に)
(恋)「障害者っていきなり言うと、聞く人はびっくりしちゃうかも (︎^_^;」
と言われたことがあるくらい。。。
そっかー、でも本人は別に後ろ向きな意味で言っているわけではないみたいですよ。
言わなくても一言二言な言葉を交わせば一目瞭然でしょと言えるくらい、2番っ子は軽度ながらもどー見ても知的障がい児。
とりあえず、
先生が「自分のことを『障害者』って言ったらみんなびっくりする」って言ってたから自分では言わないようにしようね〜☆
とやんわり伝えたら
②「(恋)先生が!?分かった( •̀ω•́ )✧」
と即答してました。
うん、多分分かっとらんな。
分かってくれる人、見守ってくれる人がいたから。
失敗して恥もかいて、それでも前を向いて壁を乗り越えてきました。
焦りや不安でいっぱいになったり情けなくなることもあったけど、そんな自分もいつの間にか認められるようになっていた。
できる2番っ子もできない2番っ子も、その中や前後で感じた色々な気持ちも引っ括めて「なんだかんだよくやった自分自身」だから良いのです。
それは他者に対しても同じ。
できないことも沢山あるけど、それだけで人の善し悪しは決まらない。
それだけで「価値がない」なんて、あるわけない。
誰がなんと言おうと、もう揺らぎません。
話は戻って修学旅行について
朝起きれば
②「修学旅行が楽しみすぎる〜」
登校前にも
②「特別列車に乗るのが楽しみすぎる〜」
帰宅後も
②「旅館の夕飯が楽しみすぎる〜」
お風呂に入る前も
②「お土産何買うか楽しみすぎる〜」
寝る前も
②「二日目の昼ごはんが楽しみすぎる〜」
って、もうエエっちゅーねーん!!
不安はないのかい?
知らない土地で子どもだけの部屋で寝泊まりする緊張感とかさ?!
同じ部屋のメンバーって普通級の子たちなんでしょ?
先生はついていないんでしょ?
②「夜は恋バナで盛り上がるぞ (//∇//)ゞテレ」
Σ(lll⚆ロ⚆)エッッ!?!?!?!?
2番っ子のワクワク感が強すぎて、こっちが疲れる。
自尊心って、日常をしなやかに楽しむ原動力なのかもしれません。
ここまでくると、ある意味羨ましいですわ。
母は2番っ子がいない夜が寂しいのに・・・。
そろそろ子離れしなはれってことなのかしら。