年齢=障害者家族歴な主婦のドタバタのほほん日和

重度自閉症者のきょうだい児として育ち、結婚後は軽度知的障害児二人の母になりました。障害支援分野でNsをやっています ☆

リトルエンペラー「察してほしい子」★特徴と対策★コレってワガママ?

過去にリトルエンペラー症候群について書いたことがあります。

今回はその続きのお話です(これは三回目の記事でございます ᐕ)ノ)。

 

以下の文章は「犬のイラスト」まで前回記事と同様の内容です。

前回記事を既読の方は飛ばしてくださいませ。

 

リトルエンペラー症候群の例

・自分でできることでも、大人にやってもらいたい

・自由時間に何をして過ごせばいいか分からない

・思い通りにならないと大声で泣いたり怒る。または反対に黙り込んで動かない。とにかく大人を根負けさせようと粘る

・自分の失敗も人のせいにする

・学校に対して、親を通じて自分の要望やクレームを言わせる

等々。

最近では、よく見聞きしますね(苦笑)。

このような特徴が見られるお子さんは結構います。

今回は、このリトルエンペラー症候群についてお話しさせていただきます。

が、単独記事では説明しきれないくらい多様であるため、複数回に分けようと思います。

 

今回は後天的問題行動のお話です

これは後天的要因に基づく心理・行動様式の概念です。

つまり経験や環境から得た結果であるという可能性が高いということです。

このブログは、先天的な要因である知的障がいや発達障がいにフォーカスを当てていますが、今回はちょっと違います。

 

理解と支援が必要な「先天性を含む問題行動」

ASDは感覚・認知の障がい

1)脳のタイプ(認知特性や感覚特性)が定型発達の人とは異なるタイプである
➡先天的要因が関係している
➡環境(他者を含む)と相互性をもちにくい
2)複雑性 PTSD と ASD の症状が類似している
➡ASD とトラウマとでは症状形成メカニズムが類似している
➡客観的には適切な環境でのトラウマ体験(主観的トラウマ体験)
➡トラウマ自体が症状に影響している
3)同じ診断名でも個人間差と個人内差(年齢による変化),つまり症状の表れ方が多様である
➡後天的要因による影響を示唆する
4)社会性(特に対人面)の発達には安定した愛着形成が必要である
➡ASDの社会性の症状にも愛着が関係している
➡そもそも社会性の発達は後天的要因が大きい
5)人間は環境に適応する(自己の欲求や安全・安心を得るための行動をとる)
➡問題行動や特性と捉えられている行動は環境への適応の結果と考えることもできる
6)環境との不適合状態が生じている
➡先天的要因により環境との不適合状態(ギャップ)が生じる(発達環境ギャップ

https://confit.atlas.jp/guide/event-img/edupsych2019/PH12/public/pdf?type=in

⇧を要約しますと、

1)ASDのように先天的な認知・感覚障がいの場合、他者や環境によって症状が左右されることはない

(特性は時と場合によって出たりでなかったりするものではなく、常にあるもの=そのひとの個性)

2)過去のトラウマ体験によって「するようになってしまった反応・行動」とASDの特性として形成された行動の発生メカニズムには共通点がある

(ASDの人も、普通に過去の経験から特性以外の行動を獲得することができる=トラウマ体験により何らかの問題行動を獲得してしまうリスク有)

3)一言に「ASD」「自閉症スペクトラム」と言っても、その特徴は一人ひとり様々。

(良くも悪くもその人となりは、これまでの経験から形成される)

4)対人関係を中心とした社会性は、育ってきた過程、特に他者との愛着形成から強く影響を受ける

(ASDは先天的な障がいで「対人関係の形成が困難」と評価されがちだが、社会性は育ってきた過程の中で形成されるもの。そもそも「人と関わる経験」なくして社会性は育たないんだから、「先天的にできない」と諦めてしまったら元も子もない!)

5)ひとは時と場合によって行動を変えられる

(ひとは何らか不安を感じた際に、自分が安心して安全にいられるように臨機応変に行動を変える。そう考えると問題行動と言われるものも、もしかしたら何らかの不安に対応しようとした結果なのかもしれない)

6)先天的な感覚・認知の障がいは時と場合によって変えられるものではない。これが生活環境と平和的に融合しないと、問題行動を生じてしまうことがある。

(一見ごく普通の状況であっても、「先天的な感覚・認知の特性」には合わないこともある。それにより強い不安が生じた場合は、問題行動につながってしまうリスクUP)

 

となります。

要は「感覚・認知に基づく個性」は、本人次第ですぐにどうこう変えられるものではない、ということですね。

また、過去のトラウマから感覚や認知に不安や歪みが生じてしまった場合、その行動が「個性」の域を脱して「問題」になることもあります。

それにより獲得した「問題行動」は「感覚・認知」故のものなので、時と場合によって変えられるなんて生半可なものではありません

注⁑4)にある「愛着形成」は、「愛情を注がれたどうか」に限定するものではありません。「本人のために、社会に適応できるように教え、導き、根気強く見守れる存在」という視点も欠かせません☜結構重要なポイント

 

ADHDは行動の障がい

ADHD自体には自他や認知に関する障がいはありません。

よって、ASDよりは社会性や対人関係を形成する潜在的ハンディキャップは少ないと言えるでしょう。

ただ、認知してから行動までの間に「先のリスクを考えてこの行動をするか否か」を考え決定する「心のブレーキ」の調整が苦手です。

「心のブレーキ」を調整するよりも先に、全力で行動に出てしまいます。

そのため「今してはイケナイ行動」をついついしてしまいがちです。

「あの状況でコレをしてはイケナイ」ということは分かっているのですが、「気がついたらやってしまっていた」。

そして本人は直後に「またやらかしてしまった」「どうしていつも・・・」と自己嫌悪に陥ります。

「心のブレーキの調整が難しい」という特性は、他者からは分かりにくいものです。

そのため周囲から「本人は不適切行動であることは分かっているのに、きちんとしない」と評価され、「しつけがなっていない」と批判されがちです。

しかしよくよく見ていれば、そんなものではないということはすぐに分かります。

彼らは自分に降りかかるメリット・デメリット関係なしに行動し、よく失敗しています。

相手によって都合よく振る舞うことができません。

そのため「目上のひと」「ばれたらやばいひと」の前でも盛大に大失敗をやらかして、しょっちゅう凹んでいます。

彼らの問題行動もまた、「時と場合によって変えられる」ようなものではないのでしょう。

 

「時と場合によって変えられない行動」により不適応が生じ、苦しんでいる人たち。

支援者はその人たちが抱える困難を正しく理解し、環境を調整したり、(獲得できそうな)適切な行動を教えたりして、共に社会の中で平穏に生きていく手助けをしています。

 

「時と場合によって調整できる問題行動」は後天的要因

反対に、時と場合で「やる」か「やらない」かを変化することができる、いわゆる「本人の気分次第」で生じる問題行動。

この原因は「環境や経験」である可能性が高いです。

最初の方に記した「思い通りにならないと大声で泣いたり怒る。または反対に黙り込んで動かない。とにかく大人を根負けさせようと粘る」はその一例。

本人の「思い」は、時と場合によって安易に変化しますからね。

上記ASDの説明で記した通り、ひとは時と場合によって行動を変える能力を普通に持っています。

これは先天的障がいの有無は関係なく、等しく誰もが有する能力です。

問題行動を起こせば応えてくれる「誰か」がいる。

その人のおかげで、自分の思い通りになる。

だったらやるでしょう。

これは「他者や環境と相互作用を持ちにくい認知・感覚の障がい」でもなければ、「直後のリスクを考えた上で調整をする心のブレーキの問題」でもなさそうです。

何故なら時と場所を考慮し、相手を選び、その反応を見て、どうすればこのあと思い通りになるかを考えながら行っているから。

長々とかきましたが、要は障がいの前に「自己抑制力がどこまで発達しているかを考えよう」ということです。

 

障がい児教育や支援の現場では、密かに様々なカテゴリー分けがされています。

・愛の手帳や療育手帳等を根拠とした「知的障がい枠」

・身体障害者手帳等を根拠とした「身体障がい枠」

・医師の診断書等を根拠とした「医療ケア児枠」

・感情や行動のコントロールが難しく社会生活に困難を抱えている「情緒・行動障がい枠」(発達障がい児枠)

 

そのなかで、端から見たら明らかに「コントロールしながら問題行動を起こしているお子さん」への介入要望が、時々回ってきます。

周囲の大人は「繊細だから本人も色々大変だろうけど」と前置きをした上で「感情や行動のコントロールの仕方を身につけてほしい」と希望します。

しかし同時に「本人がやりたいことだけをやらせてほしい」「嫌だということはさせないでほしい」「機嫌を崩さないように気をつけてほしい」とも話すのです。

 

*前回記事と同様の説明はここまでです。

 

「察して相手してくれる大人」=安心

大人、特に親と乳幼児の関わりにおいて、「応答」は非常に重要なものとして位置づけられています。

大人が温かく応じることによって、子どもは「理解してもらえる喜び」を知ります。

そこから「自ら主体的に関わろうとする意欲」は育まれていきます。

この応答は、大人に「察する」能力があればこそ成り立つもの。

乳幼児期の子どもは言葉を話せないか少々の単語が言えるのみです。

あとは身振り手振りで分かってもらおうとします。

一方的な表現でも、自分の気持ちを理解し受容してくれる大人がいる。

他者に対する安心感や信頼感は、この大人を通して育っていきます。

更には「自分は大切にされるべき存在である」という実感=自己肯定感も蓄積されていくのです。

大人の温かい応答姿勢は、社会性だけでなく安定した心の礎にもなるんですね。

「察して相手してくれる大人」が社会性の基盤になる

子どもは大人から応答してもらうことによって言葉を知り、獲得していきます。

粗く単純だった表現が、次第に言葉によるコミュニケーションへと発展します。

そして幼児期半ば辺りからは、少しずつ子ども同士で遊べるようになっていきます。

しかし経験が少ない子どもは、大人とは違って気持ちを察することができません。

そのため何とかして自分の考えを伝えようとします。

これにより幼児期後期は、言葉による自己主張がより一層活発になっていきます。

特に遊びの中では、たどたどしいながらもたくさんの言葉が飛び交います。

最初の頃は語彙数の少なさが壁となるため、園の先生は様子を観察しながら適宜仲介をしてくれます。

子ども同士で遊ぶ時間の増加と共に、応答したり、報告したり、提案したり、相談したりする姿が少しずつ増えていき・・・

そこには、これまで大人が示してきた関わり方がモデルとなって表われます。

これらを繰り返す日々を送りながら、子どもたちは自他の理解や思いやり、ルールやマナー等も獲得していきます。

大人の「察する」は幼い子どもにとって、近い将来するであろう集団生活、ひいてはその先にある社会生活にとっても、大きな礎的役割を持つものなのです。

 

「察してくれる大人がそばにいなくても大丈夫!!」になる

「大人が察してあげなければコミュニケーションが成り立たない」という時期は、通常は数年もすれば終わります。

彼らは子ども同士の関わりの中で、頑張って言葉を獲得し、自分たちの世界を広げていきます。

そしてジェスチャー等を交えながら、大人の仲介がなくても伝わるように、より具体的に働きかけるようになるからです。

「やって」「いや!」といった、自分の感情基準による「指示」「命令」「拒否」等の端的な言葉だったものから「きれいだね」「おいしいね」といった共感へ。

それと共に「〇〇ちゃん、まだやってないの」というように、自分の状況を簡単な言葉で説明できるようになります。

また、園生活で子ども同士の関わりを重ねながら、「いーれーてー」や「〇〇したらいいんじゃない?」のような、その後の関わりもありきの「要望」や「提案」を繰り広げるようにもなっていきます。

ときには気持ちのいき違いやお友達とのイザコザもありますが・・・。

「おともだち」という対等な他者との集団生活を送る上で、そのような「嫌な経験」は必要不可欠。

この「嫌な経験」があるから、「相手の気持ちを考えることの必要性」や「ルール・マナーを守ることの大切さ」も実感できるのです。

相手が嫌な気持ちにならないように気をつけて行動したりルールの遵守やマナーを実行できるようになると、対等な者同士での「相談」や「提案」は、よりスムーズになっていきます。

こうして、相互的なコミュニケーションは日々発展していくのです。

ここまでくれば、大人が察してくれなくても「相手や周囲の状況を見ながら、上手い具合に自分なりに自己主張する」スキルの基礎はできているでしょう。

このように、幼い子どもたちが不器用ながらも一生懸命気持ちや状況に配慮しながら自己主張をしてのびのびと遊んでいる姿は、いじらしく愛らしいものです。

なんとも微笑ましく、そのやり取りをいつまでも眺めていたい気持ちにさせてくれます。

まぁ、ケンカなどのように感情主体にぶつかり合う場面では、すかさず介入しますけどね。

 

リトルエンペラー症候群③:大きくなっても「察して相手してほしい子」

しかし知能や認知、言語の理解・表出具合が「通常」に成長してきたにもかかわらず、学童期以降も相互的なコミュニケーションが苦手なお子さんは、います。

なかには一部の大人に向けて、一方的に強い口調で拒否や指示・命令を繰り返したり、それにより察してもらおうとするケースもあります。

彼らは時に理不尽な行動にも出ます。

相手の心身を疲弊させたり平穏な生活を破壊させてしまうことも、少なくはありません。

この場合は本来、ターゲットの多くは自分の親。

しかし最近は、学校の先生や児童福祉施設の職員にも行うケースが散見されるようになってきました。

家庭内の問題に留まらず、家庭外の組織を崩壊させるきっかけにもなっているのです。

 

互酬の関係

話は逸れますが、「互酬の関係」という言葉を聞いたことはありますでしょうか?

「互酬」とは、誰かが「与えて」、与えられた側が「お返しする」ことを言います。

社会学では相互扶助について、経済学では金品のやり取り等でよく使われる言葉です。

バレンタインではチョコをあげ、貰った側はホワイトデーでお返しをしますよね。

これも互酬の関係です。

結婚や出産でお祝いを貰えば、内祝いを返します。

これもそうです。

お中元やお歳暮も受け取ったらお礼の連絡をします。

この場合、「くれた人へ感謝の気持ちを伝える連絡」もお返しになります。

上記例は均衡的互酬といいます。

私たちの身の回りは、常にたくさんの互酬が溢れています。

これらには、少々面倒くさい面があります。

それは「与えた側」が「お返し」に納得をしなければ、双方の関係は壊れてしまうというリスクをはらんでいる点です。

「お礼が遅い」「感謝の言葉がない」という不満は不信感を生みます。

時に「あの人は非常識」「今後は距離を置こう」と思われることも。

最悪な場合は陰口のネタにされることもありえます。

 

互酬性が破られる,つまり期待された期間内に返済がなされぬ場合,与えた側と受け取った側との間には社会的地位の上下関係が生じる。後者はいわば負い目を持つことになり,前者より下位に甘んじなければならない。当事者は意図的に互酬性の均衡を操作することがある。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%92%E9%85%AC%E6%80%A7-17092

これらの互酬性による均衡が破られたとき,当事者間には社会的地位の上下が生じるが,これはときには負い目意識となって,再び均衡がはかられる。このように均衡を求め続けることによって人間関係は継続し,進展しているともいえる。

https://kotobank.jp/word/%E4%BA%92%E9%85%AC%E6%80%A7-170925

 

上記引用のように均衡的互酬は、社会的地位の調整と他者間の良好な関係維持に一役買っています。

それは各々が対等な存在であり、「何事もお互い様である」という意識の礎にもなります。

このように贈り物には、物や気持ちを返す等して強制的に「何か」の交換を促す要素が含まれています。

いわば返礼は、対等さを維持するために必要な常識であり「暗黙の義務」なのです。

しかしこれが「不要な関係」が、一部には存在します。

それは「親子」です。

分かりやすい例が、クリスマスプレゼントやお年玉。

「親から貰ったお年玉のお礼を数日後にした」なんて、普通聞かないですよね?

「上下関係が確立した関係」の間柄、特に親(上)から子(下)への贈り物には、お返しの義務は生じないことが多いです。

これを一般的互酬と言います。

 

コミュニケーションも互酬

対等な他人同士の会話にも、互酬性は含まれています。

お礼のように物のやり取りはありませんが。

自分が話しかけても、相手から返事がなければ「ん ( ˙꒳​˙  )???」ってなりますよね。

聞こえなかったかな?気づいていないのかな?と思って、もう一度話しかけてみたり。

Aちゃんが話しかけた時に、Bちゃんは答えずに遊び続けていたとします。

するとAちゃんが立腹して「ねぇ、聞いてるの?」「ちゃんと答えてよ!」と強めに言って、Bちゃんは驚いたり・・・。

コミュニケーションにおける返答も、暗黙の義務なんですね。

話しかけられた側が「話しかけた方が納得するタイミング」で返答しなければ、相手は戸惑ったり不満を感じたりします。

子ども同士だと、「無視された」と怒るお子さんも多いです。

 

そして「怒らせてしまった」と気づいた側は、負い目を感じます。

負い目意識は、無意識且つ瞬時に社会的地位を下げる強制力があります。

この強制力は厄介であるものの、悪いものではありません。

下位に下っても、適切なコミュニケーションを重ねれば直ぐに挽回し、再び対等な関係に戻れるのですから。

「話しかけられたら間を置き過ぎずに返答する」という当然のマナーや信頼回復の手段も、こういうやり取りを重ねていくなかで獲得されていくのです。

 

「察してほしい」が生じる関係

日本は「言わなくても分かって」という考えが結構多いです。

大人同士でもありますよね。 

カップルとか(*´∀`)σ)´A`)カップルッテシゴ?

付き合い始めて日が浅いうちは、一方が「分かってくれない」と拗ねてみて、もう一方はヨシヨシと宥める。

もう、それすら楽しい  ♡ˊᵕˋ )( ˊᵕˋ♡ ラブラブ

 

不満を「あからさまなプンプン」で表現する人、いますよね?ε٩(๑> ₃ <)۶з

話しかけられても、わざと無反応や素っ気ない態度をして。

そうすると「どうしたの?」「なんで怒ってるの?」とさらに声をかけられます。

 

均衡的互酬の関係ならば、すぐに反応を返さなかったことに負い目を感じます。

そして咄嗟に「ごめん、考え事してたの。何か言った?」みたいに反応を返します。

話を聞いて適切な態度で返答すれば、関係修復は完了。

しかしわざと無反応な場合は、負い目すら感じていません。

無視以外にも色々な表現があります。

「はぁ?」「チッ、うるせー」「別に」

等など。

敢えて挑戦的な態度を返し、「自分が上」であることを示そうとします。

彼らはこのような態度をパートナーに見せつけることによって、「不満を察してほしい」、「求めに応じてほしい」と要求しているのです。

パートナーの言葉には応じずに、しかし自分の様子を見せて、そこに隠されている要望に気づき応えてほしい。

この気持ちには「対等」や「お互い様」は存在しません。

「自分たちは上下関係が確立した関係」であると思っているから、なせる技なのです。

しかしここで付け加えておかなければならない大切なポイントが一つ。

上記例のAちゃんとBちゃんのコミュニケーションにおける均衡的互酬のやり取り。

あれは一般的互酬が許容される間柄であっても、受け入れ難い時があります。

親子だって話しかけたあいってが返事をせずにゲームに没頭とかしていたら「ねぇ、聞こえてる?」って聞きますよね。

しかもちょっとイラっとして(笑)。

これ、、健全に「確立した関係」であっても、コミュニケーションの際は均等的互酬がそれなりに必要という理の存在があるからなのです。

 

「察してほしい」は破綻しやすい

カップルは、そもそも赤の他人。

そこまで「確立した関係」じゃありません。

理不尽な上下関係が継続・維持されるようになると、下位についた側は「これってモラハラ?DV?」と次第に感じるようになります。

そして下位に甘んじることなく「なんでそんな関係で付き合ってやらなきゃいけないんだ!!( º言º)ムキー」となり、場合によってはそのまま破局・・・

夫婦関係も少々面倒な手続きを踏む必要はありますが、離婚という形で破局します。

 

破局を防ぐ&両者の関係を維持するための方法は二つです。

 

①下位に位置するように求められた人が、完全に諦めて理不尽な上下関係を受容する

②互いに納得して、対等な関係でいられるように努力する

 

どちらもなんだかんだで疲れることになりそうですね。

最初っから上下関係なんて作らずに、対等であろうとすれば良かったのに。

「確立した関係」であろうとなかろうと、ましてや「どんなに仲睦まじい間柄」であっても、そこには必ず「対等性を維持するための心」が必要ということです。

 

察してほしいときの言葉・態度

上記例にあげたように察してほしい時は、わざと無視したり「はぁ?」「チッ、うるせー」「別に」等の端的な言葉を使用することが多いです。

そうすれば相手から戸惑いをはらんだ注目を得ることができるからです。

そして十分に注目を獲得したら、相手を責め立てたりしながら自分が上位であることを示した上で、指示や命令形で要求を伝えます。

この場合「自分は上」なので、提案や相談という形で「相互的な交渉」をする必要はありません。

 

さて、「相手に察してもらう」「一方的」「端的な言葉」「指示」「命令」は、乳幼児期におけるコミュニケーションの説明で上がったキーワードです。

これらは言葉の獲得が不十分でコミュニケーションが難しい時期であるために、成長を支えてくれる大人に向けてするものでした。

しかしそこには、上下関係の操作など一切ありません。

大人も「自分の方が上だ」なんて示すことはしません。

両者には安心感や信頼関係が内在しているから、そんなことをする必要はないのです。

 

リトルエンペラー症候群に「両者の」安心感や信頼はない

意図的に上下関係を操作しようとすれば、不信感が生まれるのは当然。

カップルや夫婦のように元々他人ならば、破局して関係を解消できます。

友達なら、「疎遠」にされて終了です。

集団の中で幼稚なコミュニケーションのもと関係形成をしようとすれば、その構成員一人一人から距離を置かれるでしょう。

次第に居心地が悪くなり、自分から集団と距離を置くようになり・・・

その結果は、孤立と孤独。

しかし親子間はそうもいきません。

「破局」や「関係終了」はないのです。

子どもが未熟なうちは「疎遠」も難しいです。

これは「下位の人が完全に諦めて、上下関係を受容する」が、リアルに発生しやすい下地。

この状況を利用して、リトルエンペラー症候群は誕生します。

 

リトルエンペラー症候群は社会的孤立と停滞を招く

現在、教師・支援者-子ども間も似たよう状況になりがちです。

現場では大人間の上下関係が一方的に形成され、「保護者の満足」が暗黙的に求められるようになりつつあります。

よって子どもへの指導が正当なものであっても、ひとたびそれについてクレームが発生すれば「悪」となります。

「下位に位置するように求められた人が、完全に諦めて理不尽な上下関係を受容する」状況が生じやすくなっているのです。

しかしこちらは期間限定。

「貴重なご意見(風の指示)が多めな親」&「幼稚な自己主張多めの児童」がタッグになり、先生や支援者を疲弊させたり上下関係を形成しようとも、「担当の変更」や「卒業」は必ずやってきます。

それを機に、いままで「疎遠になりたい願望」を抑制し耐えて受容してくれていた大人たちは、バッサリ切り捨てて去っていきます。

これによりリトルエンペラー症候群は、更に孤立することに。

特に進級や卒業が重なる思春期は、心身共に揺れやすく、そんな自分自身を支えるために「分かち合える」友達を求める時期でもあります。

そんな中でリトルエンペラー症候群は、友達を得るどころかみんなから疎遠にされてしまうのです。

社会生活で対等に分かち合う・支え合う相手もなく、理解してくれる大人もいません。

思春期特有の心理的課題は乗り越えられず、そのまま持ち越すことになるでしょう。

なかには自身の不安を払拭するために、家庭内にさらに強固な上下関係を築こうと、虚しい努力を始めるケースも出てきます。

 

察してほしいリトルエンペラー症候群が「苦手な人たち」と「そうでない人たち」

この手のリトルエンペラー症候群は、「お互い様」の関係に基づく要望や提案・相談といった「相互的なやりとり」が苦手です。

それ以前に「対等」を維持するためのルールの遵守やマナーの実行も避けがち。

よって「対等な対人関係」も苦手です。

子ども時代の「対等な関係」と言えば何か?

幼児期のコミュニケーションでも言いましたよね。

それは「友達」です。

子ども同士で命令ばかりする子や、気に食わなければ泣き喚いて相手を思い通りに動かそうとする子は、友達ができにくいです。

若干くらいなら受け入れてもらえる場合もあるでしょうが。

シェアするはずのお菓子を一人占めしようとしたり、ゲームで勝てないからって勝負がつく前にグチャグチャにして台無しにしたり、仲良さげにしている友達を見下す発言ばかりだったり。。。

自分は「友達」でいたいと思っていても、そんなことをすればみんな離れていってしまいます。

頑張ってコミュニケーションを図っているつもりなのに・・・。

「下」には見られる隙を作りたくないので表面上には出しませんが、本人は訳が分からず戸惑っています。

自分の性格の問題なのか、相手が意地悪なのか、よく分からないげとなんだか上手くいかない。。。

 

反対に、自分にとって「対等」ではない人たちなら大丈夫であることが多いです。

例えば、すっごい年が離れている人とか。

児童期のお子さんだったら、赤ちゃんとか大人とかがそれに当たります。

新たに出会った大人に対しては人懐っこく、非常に可愛がられる、とかはよく聞く話です。

しかし年齢に関係なく「ご近所さん」は苦手・・・というパターンも結構あります。

年齢差や上下関係は無しに「ご近所さん」としての立場をお互いに維持していくためには「挨拶」が必要だからです。

挨拶は均等的互酬の関係に基づく基本的なやりとり。

これができない。

大丈夫なのは「確立した関係」の人と「年齢差が大きく付き合いの薄い、住まいが離れた赤の他人」くらい遠い人です。

 

察してほしいリトルエンペラー症候群が「苦手な場所」

つまり

  • 「確立した関係」以外の人で
  • 良好な関係を長期間維持する必要がなく
  • 年齢差があまりない

というような微妙な近さがある対象が苦手、ということです。

こういう人たちが大勢いる場所、子ども時代にはほぼ毎日行きすよね。

 

そう、「教室」です。

自分にとって近すぎず遠すぎない子どもたちが30人近く集まり、集団活動をするあそこです。

「確立した関係以外の人で、良好な関係を長期間維持するためにはルールやマナーが必要な、年齢差があまりない」以外の人(例えば先生とか)や家族には強い口調で主張できる子も、同級生ばかりの教室では思うように話せなかったり、平気そうに見えても実は精神をすり減らしながら過ごしている・・・ということも珍しくありません。

実際に所属していても、その子ども集団の中で居場所らしさを感じられず不安に陥ってしまいます。

それにより「自分の存在は浮いているんじゃないか」「実はウラでバカにされているんじゃないか」というような根拠のない不安や不信感を覚えるようになります。

これを自意識過剰と言います(俗にいうのとはちょっと違いますね)。

これは「対人恐怖」の萌芽です。

この芽はネガティブな感覚を養分にしてあっという間に大きく育ちます。

そして自分自身をゆっくりと押し潰し始めます。

もがいても状況は変わりません。

しかし完全に押しつぶされる前に、なんとかして身を守る方法を見つけなければ・・・

もがいてもがいて、やっと見つけた方法。

それは「教室という空間を否定・拒否し、そこから離れる努力をする」です。

周囲が納得するような説明なんてできません。

でも察してくれる人ならば、詳しい説明なんてせずとも受け入れるはず、と期待して。

 

×:原因不明の登校渋り=リトルエンペラー症候群

「歳の近い子どもたちが集まる空間での生活が苦手=リトルエンペラー症候群」というわけではありません。

しかし苦手な対象に対してコミュニケーションを避けがちなお子さんの中には、「家族、先生や支援員等の大人には強く主張できる」ことは、よくあります。

さらにその一部には、相手によって知識を駆使しながら言葉巧みに、一見賢そうな主張を展開し言い負かそうとする強烈なタイプも存在します。

しかしこのタイプは、よく見てみると、端的な言葉や強い口調で一方的な主張を繰り返しているだけ。

そうすることにより、相手が屈するように強引に仕向けているだけ。

こういう場合、彼らは相手の困惑や自分がどう写っているか等は認知していません。

「できない」のではなく、それをやってこなかったことにより「感覚が育っていない」のです。

そして相手や周囲そっちのけで、「服従させることにより得られる報酬」に注目しています。

お互い様とはかけ離れた、自分本位な報酬への執着。

これがリトルエンペラー症候群の本態と言えるでしょう。

予防

学童期以降もリトルエンペラー症候群になるリスクは十分にあります。

この状態を未然に防ぐには、それなりの方法が必要です。

一番手っ取り早いのが「幼児期の園生活と同様に年齢が近い友達を複数人作り、集団での遊びや生活を日常的にする」です。

上下関係が薄い或いは対等な他人と良好な関係を築き維持していくためは、相手を理解し気持ちを考えたり、時には譲ったりをお互いにしなければなりません。

また不快や不安にさせないために、適切な態度や言葉でコミュニケーションを図ることも大切です。

子ども同士の関りには、それら要素がまんべんなく散りばめられています。

1対1よりは集団性がある方が、ルールやマナーを守る経験をする機会に溢れています。

自分とは違う考えがあることに気づきやすく、それと上手く付き合う術も身につくでしょう。

但し子どものみの集団だと、未熟者の集まりなので自己中心的で第三者を不快にさせたり迷惑をかけたりすることもあります。

事故に遭うリスクもあり危険大。

そう考えると子ども同士の関わりを外からこっそり見守り、必要時にはブレーキをかけたり適切な行動を教えてくれる大人の存在は必要不可欠。

好きなスポーツがあれば、習い事としてチームに入り仲間関係を形成しながら指導を受けるのも良いでしょう。

しかしバランスが良いのは、断トツで学校です。

  • 程々の集団で一定のルールが存在する。遵守する者ほど受け入れられ、居場所を得られる=「集団・組織の中で平穏に過ごすためにもルールを守ることは大切である」と身をもって経験できる
  • 考え方や興味、得意・不得意は人それぞれ。他者を理解するきっかけが溢れている
  • 「他者を見て学ぶ」観察学習をする機会に溢れている
  • 長期間の友達や仲間関係を形成するチャンスがある
  • マナーを持って相互的なコミュニケーションをすれば、友達・仲間として受け入れられやすい
  • 友達・仲間関係が形成できれば、休み時間や放課後に一緒に遊べる=自然な形でより発展できる
  • 上級生の行動を手本にしてルールやマナーを学べる=上下関係が薄い間柄から学ぶ経験もできる
  • 下級生に教えながら「相手に配慮しつつ上に立つ」練習ができる

日常生活に密接し、学びや経験、相互的且つ主体的な関りの幅も果てしなく広い。

勉強も運動も学べる。

最強なコストパフォーマンスです。

改善

早いうちからリトルエンペラー症候群の様相を見せているお子さんは、幼児期の園生活からその兆候が現れています。

要は

  • 友達・仲間関係を築くのが苦手
  • 察して相手をしてくれる大人に依存的。かつ一方的なコミュニケーションをしつこく図ってくる
  • 子ども集団内に留まれず、活動中にもかかわらず距離をとる
  • 集団内で、返事や発言等の言葉による自己主張を拒んだり、活動から脱走を試みる

などの行動が見られます。

この状態で小学校というこれまで以上に大きな集団に加わり、さらにルールの遵守やマナーに基づいた行動や自己主張を必要とする日常生活を送るというのは、キツイはず。

居た堪れなさから、それこそ授業中に学校から脱走とかもあるでしょうね。

そうなると不慮の事故を防ぐために、学校側も不登校を許容せざるを得ません。

いまは「無理に登校せずとも学校外で教育活動をすれば、その分は出席と認める」とする考えもありますし、その方がお互いのためでしょう。

ただ「社会性を育てる」観点で言えば、そのための経験を積めない、他者理解やルールの遵守、マナーを獲得した上での自己主張や相互的関係を築くための経験の損失が、あまりにも甚大であるという点は、非常に勿体ないと言わざるを得ません。

 

兆候が見え始めたら、すかさず家庭内で改善に向けた試みをすることをオススメします。

兆候からさらに進行してしまった場合も同様です。

個々に差はありますが、彼らには「対等な他者と同じ空間を共有する」「ルールやマナーを守った上で相互的なコミュニケーションをする」ということの苦手さが基盤にあります。

まずはこの苦手感を和らげる働きかけをしていきましょう。

そのための場をいくつか紹介します。

 

改善に向けたオススメの習い事

  • 歳の近い子どもが参加する小集団で
  • 何らかの形で場を共有して
  • 目標の達成を目指し
  • 順番やマナー等を守りながら取り組む

上記条件を満たした習い事がオススメです。

+‪αでコミュニケーションもとれたらラッキー。

これが苦手だとしたら、マンツーマンで「マナーを守りながら取り組む」系の習い事からした方がいいでしょう。

それすらできないのなら、どこに行っても受け入れ拒否されるでしょう。

⇧の記事にも書きましたが、「ルールやマナーに反した行動を意図的にする」タイプは、公的な福祉施設であっても受け入れてもらえません。

最初は受け入れてもらえても、いずれ「お子さんはうちには向いていません」とやんわりお断りされるのがオチ。

社会や組織に所属するということはそういうことです。

他者との関わりが希薄、特に対等な関係形成の機会が少ない現代だからこそ、大人になったときに孤立しないような予防的介入が重要です。

 

実際に小集団に入り、活動する習い事

子ども英会話ペッピーキッズクラブ

子供たちの「心に体力を。」多種目スポーツスクールJJMIX

全国900以上の教室のあるロボットプログラミング教室 エジソンアカデミー

パズル・ロボット・プログラミング、全部できるのは、自考力キッズ

サイバーエージェントが運営するプログラミング教室【テックキッズスクール】

子どもの活きる力を育むプログラミング・ロボット教室【LITALICOワンダー】

 

オンライン上で他児と関わりを持つ機会がある習い事

英語「で」学ぶ。だから英語が楽しくなる! Chiik! Global Academy

オンライン・インターナショナルスクールGlobal Step Academy

オンランプログラミングスクール【アンズテック】

 

どれもおススメですが、特に「LITALICOワンダー」は、児童発達支援や放課後等デイサービス、就労支援サービスを全国展開する株式会社LITALICOが運営しています。

そのため「コミュニケーションに不安があるお子さんも安心して通える」をウリにしているという点は推しておきたいです。

 

まとめ 

そういえば最近、ネット上で「スカッと」系漫画を見かけることが多くなったように思います。

あれら漫画に登場する非常識な人たちは、社会の中で相手や周囲の状況を認知せずに自分の欲求を満たすことに注力しています。

そして欲求が満たせなければ怒ります。

「自分の方が上」と赤の他人に対して一方的に主張し、相手が屈するように促す。

現実では街中で出会った見ず知らずの他人に、いきなり「自分の方が上」と言葉で主張する人はそんなにいないかと思います。

しかし「モンスター■■」や「〇〇様」「△害」などの揶揄があるように、高圧的な態度やルール・マナーを無視した振る舞いをして、自分の欲求を受け入れさせようとする人がいるのも事実。

本来ならば「お互い様」の間柄であるにも関わらず、それを認知せずに「勝手に上下関係を期待している」。

このような状態は人付き合いが希薄になり、均衡的互酬を持つ機会が少なくなってきている現代だからこその姿なのかもしれません。

彼らは結局、「自分より下」と期待した相手や組織から疎まれ、より一層他者との関わりは減り、孤立していきます。

まぁ、大人の場合は過去に均衡的互酬の関わりをある程度しているので、なにかのきっかけで思い出せば改善する可能性もあります。

しかし子どもは、その礎を作っている真っ最中。

礎なくして「お互い様」の心を持つ人間にはなりません。

子ども時代に経験として積み重ね、自立後も他者と関わり合いながら社会の中で平穏に暮らしていけるよう、大人の働きかけは今後さらに重要になっていきます。