色々あったこの一年。
あと一か月と少しで、子ども達の学校生活もひと段落です。
2番っ子は四年生になるということで、いよいよ思春期に本格的に足を突入します。
今年度はその前兆と思われる「対人関係のストレス」(?)がちょっと垣間見える出来事がありました。
そして1番っ子は、私が「自分で勝手に、人生で一番拗れる時期」と思い込んでいるバリバリの中学生です。
案の定、色々色々色々色々・・・・
よくもまぁ、こんなネタに尽きない状況になるもんだと感心する程のことが
それなりにありました。
その為コロナ禍ですが、そんな2人の気晴らしになればと
・人が多いところには行かない
・県を跨ぐ移動はしない
・こまめな手洗いとマスク装着は必須
・お食事は黙食
を条件に様々な場所にお出掛けをしていました。
これがまた、いいところが結構あるんですよね。
県立公園なんて、マイナーな所はほとんど人いないし。
我が家は政令指定都市のはずれの地域にあるのどかな住宅街で
歩いている人は住民ばかり。お店も少なく夜は真っ暗・・・・なんて地域ですが、
そんな地元の夜以上に人がいない場所にターゲットを絞り「どこで何をしようかな♬」
なんて考えるのも楽かったです。
話は変わりますが、最近私の持病にちょっと良くない様子が出てきてしまいました。
命にかかわるものではないのですが、日常生活に影響する症状です。
アラフォーなので、少し無理がきかなくなってきたのでしょう。
そのため副業先に事情を話し、本業がお休みの土日夜勤月4回を半分程度に減らしてもらうことにしました。
月2回しか出勤しないことに難色を示すことなく受け入れて下さって、感謝しかないです。
ありがたやありがたや。
おかげさまで少し休みを取れるようになりました。
そこで、これまで以上にお出掛けに力を入れようとしている今日この頃です。
え?「結局休んでないじゃん」ですって?
まぁ、私はそういう性分なんですよ。多分。
体力はないのにおかしなエネルギーはあるみたいで・・・。
休みたいのに休めないんですよね。
自分でもめんどくさいと思う特性(?)です。
体調を崩さない程度に、コロナ禍で自他ともに困ることのないように
気をつけながらやっていきたいと思います。
では本題に入りましょう。
折角なので、途中なんの脈絡もなく最近のお出掛け写真も混ぜていきます。
本題:何故お出掛けを軽度知的・発達障害児に勧めるか
当ブログは、開設当初から我が家のお出掛け記録を色々UPしてきました。
合間にお出掛けをお勧めする理由記事などもいくつか書きました。
な、懐かしい・・・・。
過去記事を見ると「ちょっと前の自分と久しぶりに再会☆」という感じですね。
なんだか照れくさいです。
で、今回はこれまでとは違った方向である
「認知と感情の発達」
という観点からザッと手短にお話したいと思います。
以下は、これまでの読み漁った論文や書籍、そして職業経験をもとにした、「ほぼ私見」です。
無責任ですが、そこんところはご了承の上でお読み下さいませ。
認知能力と感情・行動の発達
心理学でいう認知とは
外界にある対象を知覚し、経験や知識、記憶、形成された概念に基づいた思考、考察.推理などに基づいてそれを解釈する、知る、理解する、または知識を得る心理過程、情報処理のプロセス
教えてもらったり経験したことにより、自分で感じたり考えたりすることです。
人間は赤ちゃんのうちから、
パパやママの声をきいて顔を注視し、
抱っこされてその温かさを感じる等して、
この人は自分にとって何者かを知り、
声を出したり笑ってみたり又は泣いてみたり、
元気に手足を動かしてみたりします。
「感じたり考えたり」は感情となり、それが行動に繋がります。
つまり「行動」は「①認知」と「②感情」を先に経験することによって生起するものなのです。
親はその様子を見て、
赤ちゃんに応答するようにまた抱き上げたり、
優しく語り掛けたり、
おっぱいやミルクをあげたりします。
人間はこうやって気付き合い(認知)
相手が反応してくれることを期待し(感情)
互いになんらかの働きかけを繰り返しながら(行動)
考え、相手を理解し(考察+認知)
時に気分や体験を共有し(感情+経験)
学び、行動を獲得していきます(行動のコントロール)。
それがやがて模倣や言葉によるやりとりへと発展し(行動の質の向上)
またそこから経験したものへの意味理解が広がり(他者認知の質の向上)
他者との共感や了解が可能になり(感情や経験の質の向上)
自分のなかに様々な感情を抱き、その気持ちに向き合い、自分自身を知り(多様な感情の経験と自己認知の質の向上)
そこからまたどのように行動するべきかを考え(行動の質の向上)
不安や葛藤の中から「優しさ・思いやり」とは何かを知り(複雑な感情の経験と認知の質の向上)
他者と向き合いながら自分も行動してみて(向社会的行動の獲得)
社会が広がり、その中で新たな自分自身を獲得していくのです(全体的自己価値の獲得)。
感情には様々なものがあります。
赤ちゃんの頃は単純な興奮から「快ー不快」が生じ、
認知と関わりを繰り返していくことにより
得意や愛情、怒りや嫌悪、恐れ等に分化していきます。
認知の発達なしに感情の分化はありません。
そして大人に辛抱強く見守られたり時々助けてもらったりしながら、子どもは複雑に枝分かれし伸びていく自分の感情に気づき、
向き合い、受け入れ、コントロールするようになるのです。
様々な経験が認知や感情を広げます。
一緒にきれいな景色を観て感動したり、
冷たい水に触れて驚いたり、山道を歩いて疲れてみたり。
ちょっと日常生活と違うことを経験してみると、
いつもと違う相手の様子や普段は感じない自分の特別な感覚や感情に気づいたりします。
これはゲームや動画の視聴からでは得られないものです。
家の外に出ると、思い通りにならないこともたくさんあります。
公園に行けば服にくっつき虫がつくこともあるし
遊具をあとから来た子に譲らなければなりらないこともあります。
海の水はベトベトするし
雪に触れば濡れるし身体は冷えるし
どんなに魅力的な自然でも衛生的ではないです。
いくら楽しくても、時間になれば帰らなければなりません。
疲れていてもみんな同じです
(アスレチックの後に2時間ハイキングはさすがに疲れました。親なんて、その後も帰りの運転や夕食の準備もあったりだし)。
「自分が嫌だから」と、我を通そうと赤ちゃんのように駄々をこねるなんて、
人目を気にしてできないかもしれません。
そんなときは我慢したり、頑張って乗り越えてみたり。
まさに「経験は新しい自分との出会い」です。
調査や研究の結果から見る「現代的子育て」への警鐘
失敗しないように・気分を損ねないように・楽しい気持ちだけで成功体験を積めるように、大人が囲い混むような愛情で子どもの環境を設定していては
「自分に対して大人がどう考え行動するか」「何をしてくれるか」を
認知し推測する機会ばかりを与えかねません。
本来は他人の行動や考えに目を向けると同様に、子ども自身が
自分のいまの感情を受け止め、向き合い、認知し、葛藤しながらも他者や状況と折り合いをつけて行動する経験
が必要なのですが。
(折角、様々な認知・感情・行動を経験し、多様な成長につなげるチャンスなのに。勿体ない!)
愛情で囲い込むような対応は、はじめこそ感情の凹凸を少なくさせます。
大人を頼りにするような様子も表れ、信頼関係が形成されたように見えがちです。
しかし現実は、自分で自分の気持ちをコントロールして周囲との関わりを調整しながら行動する学習機会を奪っているのです。
この経験がなければ「社会の中でどのように行動すればいいか」考え、実行し、答えを見出すことは益々難しくなるでしょう。
結果的に「愛情による囲い込み」は、心が成長するチャンスを奪い、自主性・主体性の獲得を阻害しています。
だから担任の先生に「子供が荒れたりせず、楽しくいられるように寄り添ってください」と個人的対応を求めても、
それは大人の「いいとこどり」の「その場しのぎ」でしかないんです。
「その場しのぎ」を日常的に繰り返されたら、子ども自身はどうすればいいのか分からなくなってしまいます。
結局、漠然とした不安の中から抜け出せず感情は混乱し、不安定になっていってしまうでしょう。
様々な認知が可能になるように多くの経験をさせようとする試みはグッドです。
但しいくら経験を積んでも「自分に向き合う時間」を与えなければ、
自分の感情に気付くことも受け入れることもコントロールすることもできません。
向き合っても気付くことがまだまだ難しい時期は、大人が「共感」という形で
「これはどういう気持ちなのか」を言葉にして伝えてあげると良いでしょう。
しかし現代は、多くの親が時間とお金をかけて
我慢しなくてもよい、我慢する必要もない環境を過剰に用意しているようです。
その為「忍耐力がなく」「自己中心的な」子どもが増えてきていると、
様々な調査・研究で報告されています。
そしてキレる子や就学後もよく癇癪を起す子が増加していると。
癇癪は本来小学校に入学する頃にはなりを潜める行動です。
入学当初は学校への行き渋りや登校前や下校後の癇癪があったお子さんも、大体夏頃には落ち着くものです。
一般的に認知能力が発達すると次第に相手の気持ちや状況的ルールを理解すると共に
「どう振る舞うべきか」を考えられるようになります。
また癇癪というかたちで我を通そうとする自分を客観的に「恥ずかしい」と感じるようにもなります。
そして自分の感情をコントロールし、その場に合った適切な行動を取ることが出来るようになるのです。
このように「キレる」とか「癇癪」といった行動は、
「状況や感情への気づき、他者認知や自己認知の不十分さ」が原因であるとも考えられます。
自分の感情やその理由と向き合うことをせずに
「自分は不快に感じている」と外界にお構いなしにアピールしているものなのです。
自閉症のお子さんは感覚・認知機能に先天的な障がいを持っています。
赤ちゃんの時に「目が合わなかった」とか「全然笑わなかった」とか「人見知りがなかった」とかは、これに当たる可能性があります。
そう考えると感情表現や行動にも偏りや特徴が見られることには納得ができます。
その為「行動中心ではなく認知・感情の関りに着目した療育を丁寧に実施すべきだ」という意見もよく耳にします。
だから余計私は
「家族でお出掛け」を強く強く強~~く推したいのです!!
変化が苦手で「先ずは場所慣れ」というお子さんもいると思います。
そこは「できる範囲で」「少しずつ」で良いと思います。
自閉症などの先天性障がいを持つお子さんは、無理のない範囲で様々な状況や他者に少しづつ慣れる練習をしていきましょう。
思春期以降は身体も体力も成長するし、力自体も強くなります。
「新しい場所だと動揺して動けなくなる! 」「興奮すると危険な行動をしてしまう!」と言う状況は、それこそ誰も対応できなくなってしまいます。
支援する側も自分たちの健康・安全を守る権利があります。
施設側から「うちでは対応できません」と言われることのないように
小さいうちから意識してやっていくことをお勧めします。
ひとつ注意していただきたいことに「自閉症のフラッシュバック」というものがあります。
これは時として特定の状況や他者への怒りや混乱を伴い問題行動を示すことがあります。
この場合は落ち着かせようと仲裁者が入っても、それが誰であっても、そしてそれがどんな状況であっても
本人にとっては感情や行動のコントロールが難しいな状態で中々そこから脱出できません。
どのような状況でフラッシュバックが生じるか、もし分かるのでしたら
その状況に敢えて慣れさせようと頑張ることはしないでほしいのです。
きっとお互い、ものすごい苦しむことになると思います
(これはもう、本物のフラッシュバック状況に直面したことがある方なら言わずもがなしょうが)。
あくまでも「手軽に・気楽に」行える範囲で実施しましょう。
自閉症などのように状況や相手に関わらず問題行動を生じやすい先天性障がいとは異なり
普段は状況判断やその説明が上手で感情表現も多様なお子さんであっても、親御さんから療育相談を申し込まれることが結構多いです。
特に最近は「不安が強いために、家庭でよく泣き喚いたりキレたりする」という事例が目立ちます。
しかしその後療育に繋げると、現場から
「癇癪を起して騒いだりキレたりすることはあるよ。
でも期待する反応をしない大人が現れたら
すぐ間に落ち着く。少しオドオドとかイライラはしてるけど」という情報を大抵はもらいます。
このように時と場合によって問題視される反応・行動が出たり出なかったりする場合は
先天的な発達障害によるものではない可能性が高いです。
また明らかな先天的障がいをお持ちのお子さんでも、このような反応を見せることがあります。
その場合は、元々の障がいとは区別した「別の問題」と捉えるべきです
私は支援現場にお邪魔した際はお子さんとじっくり会話をして、その後に行動をよーく観察するようにしています。
じっくり会話をしているときは、受け答えは落ち着いてしっかりできているし認知や感情の分化や表現はそれなりにできている。
会話も違和感なくスムーズ。
表情も自然です。
しかし直接支援をする立場の大人には横柄な態度で自分優先を暗に要求したり、集中的な注目を求めたり、
また、思い通りにならなかったり立ち居振る舞い方が分からない場合は
頑なな拒否や癇癪、キレる等の表現や行動を「取り敢えずしてみる」お子さんと
これまで様々なケースで出会ってきました。
何かの流行ですかね?
支援者や他のお子さんの存在に慣れてくると、彼らは自分のことをよく
「サイコパス」だと笑って言うんです。
サイコパシーって「恒常的なパーソナリティ障害」とかだったはず。
恒常的ねぇ・・・
ふ~~~ん。
一方、親御さんから見た彼らは
「不安が強すぎて感情のコントロールができない」らしいのです。
「自分はサイコパス」発言は一生懸命適応しようとしているが故の言動でしょう。
期待を持ちながらも拭いきれない不安に対して
虚勢と優位性で対処しようとしているのです。
支援者は、不安を受け止めつつ本人の期待を支え、適切な行動を教えます。
それと共に、この状況に不安を感じてしまう根本的な理由「認知の歪み」はどこにあるのかを
しっかり見極めていかなければなりません。
「発達障がいだから学校や福祉でサポートを」
「家で荒れると大変だから機嫌を損ねないように気をつけてください」
というご意見を支援の希望として伝えられることがあります。
しかしなんだか腑に落ちない自分が心の隅にいます。
また、「前の先生の時は落ち着いていたのに、学年が変わって今回の先生になったら注意されただけで不安定になった」と話を耳にすることも何度かありました。
(直接的な理由は何もないのに突然一方的な嫌がらせやいじめを受けるようになったとかなら別ですが)
生活の中で間違ったことやリスクあることをしたら叱ったり注意するのはひとりの大人として当然のはず。
それによりお子さんは自分の行動やリスクに「気付き」(認知)、
今後どのようにすればいいか「自分なりに考える」時間と社会のなかで行動化する機会を得ることができます(感情のコントロールと適切な行動の獲得)。
「先生の叱り方がおかしいから子どもが傷ついた」とか
「相性が悪い」とか
「教師としての能力が低いから」
とかいう言葉をSNSで見かけたり実際小耳に挟むこともありますが
そもそもがそういう問題ではありません。
ましてやそれをお子さんの前で言ってしまったら
当の本人は「行動の振り返り」や「何がいけなかったのか」とか「これからどうすればいいのか」等を自分で考えること自体を放棄してしまいます。
我慢しなくてもよい、我慢する必要もない環境設定や情報化社会の恩恵により
「ルール」や「自己責任」という言葉を意味そのものを知ることはできますが、ただ知っているだけで
自分自身に経験させることなく成長していってしまうでしょう。
(よく大人に注意されると「知ってる」「分かってる」と答えるのに、またすぐに同じことをして注意されるお子さん。いますよね?
以前耳にして驚いたケースでは、衝動生と感情コントロールに困難を抱えたお子さんが大人と外出時に車の往来を気にすることなく駆け出したり不適切な箇所に跳び乗ったりしながら「自分が怪我したらちゃんと見てなかった学校が悪いから、学校がお金をくれるんでしょ?」と言っていたことです。何故この年齢で賠償金についての「知識」があるのか、何から得たのか、大人びた知識の割には就学以前には得るであろう交通ルールに沿った行動意識やケガをすることにより自分が負うリスクへの未熟さ、そして極端な他者依存・・・。この場合、「発達に偏りがある障がい」とだけで解釈しようとせず、「認知」「経験」「行動」と「そのバランス」という点からも検討する必要があるでしょう)
だからこのような場合は「支援をする他人が変更されたところでお子さんの生きづらさは何ら解決しない」と思う今日この頃です。
そういった意味でも「家族でお出掛け」をして一緒に色々な経験のなかで
家族に温かく見守られながら自分でじっくり感じて考える時間を持つことは、とてもよいと思います。
・親と子の価値観の差は縮まり、子どもにとって贅沢だと親が思うものは少なくなってきている
・大人の、親としての干渉の度合いも弱まってきている
・家庭生活で、正直、正義、自立などを学習する機会は少なく、子どもたちは代わりに友達関係という不安定な価値観の中で学習せざるを得ない
・大人は「権威ある親」よりも「友達のような親」を目指している傾向にある。本来親としての家庭において責任を果たすべき内容は、学校で教えてほしいと考える親が増えている
というNHKの世論調査や日本青少年研究所の調査の結果も、これに関連しているのかもしれません。
どちらにせよ「家族でお出掛け」は
少しずつゆっくり確実に成長を促すことができます。
それを見守っている親も一緒に成長できるはずです。
まとめ
知的障がいや発達障がいを簡単に説明することはできません。
一人一人が抱える困難は本当に様々です。
ただ、全体的に感情・行動のコントロールや社会での人付き合いに
なんらかの問題を抱えているケースが多いように感じます。
だからこそ敢えて家族で「家庭のそと」に出ていき認知を広げると共に「思い通りにならないこと」との出会いを楽しみ
大人主導の下で経験しながら、
そして時には大人に助けられるのではなく見守られ安心しながら自分で向き合い行動する経験を積むことが大事だと思うのです。
それにより自己・他者認知も進み、感情や行動のコントロールが可能になるのならば
周囲に理解を求めるばかりではなく互いにスムーズな社会生活を送れるようになるのならば
人付き合いがストレス少なく送れるようになるのならば
100%は無理でも、少しでも出来る範囲が広がっていくのならば、
お子さん自身の将来にあるであろう困難感や苦しみも軽減していくのではないでしょうか。
残念ながらこれらは、他所での療育やトレーニングのように
カリキュラムを繰り返し取り組むことによって得られるスキルではありません。
ほとんどは、子どもが安心できる大人主導の下で主体的に生活してこそ獲得できるものなのです。
家族とのお出掛けを繰り返していると
不思議と子どもは自然のなかで主体的に行動し始めます。
特に私みたいに、親に体力がないと(汗)
子どもは「親(私)を頼っても仕方がない」とすぐに見きりをつけ
どんどん先へ進み楽しんでいます。
親が思っている以上に
そこで子どもは新たな認知や感情を獲得し
自分のなかに入れて蓄え
自身の成長の糧にしているのです。
突然ですが、私の悩み
いつも偉そうに書いていますが、私は全然ちゃんとした親ではありません。
記事を作りながら「自分はどうなのさ」といつも自問自答しています。
知的障がいをもって生まれてきた故に、
経験を認知に結び付けることができない時期が長いことありました。
それでも小学校入学前くらいから感情表現が多様さが見られるようになり、
それに伴い認知力が増してきているようでした。
でも小学校生活では、時として感情のコントロールができなくなることもあった1番っ子。
認知能力の発達が遅く、また到達点も周囲にいる子たちより近くて、
感情の分化やその表現に限界があり、
ひととの距離感や折り合いの付け方を十分に獲得できないまま日々を送ってきました。
中学生のいま、感情コントロールは大分可能になりましたが、
それでも不安材料は残っています。
表面上は感情をコントロールできているように見えても、ただひたすら堪えて苦しさを溜め込んでいるだけかもしれません。
だから「このまま大丈夫」とは思っていません。
1番っ子と2番っ子は、いま各々に学校生活で何らかのトラブルを抱えています。
実際に現場を目撃していないので何とも言いづらいですが、
話を聞く限りでは原因は我が子にはないように感じます。
しかし、だからと言って、対人関係でトラブルを抱えやすい子には
それなりの傾向があるのです。
そしてその傾向を作ってしまったのは本人ではなく、これまでの社会生活でもなく
育ててきた私たち親です。
そして子ども一般の(大人もそうですが)、
障害とか、自分たちと違うものを持っている人間に対する排他性の強さを、
私は身を持って知っています。
排他性は思春期をピークに強くなることも。
残酷さから子どもを守れる方法が見つかるかもしれないと、療育手帳を早くに取得していたのに
排他性から身を守る術を教えずに地域の学校に進学させ
普通級でも生活するように促しました。
私自身は目の前の我が子に向かい合うことに精一杯で、
それから先のことまで考えられなかったし、
いっぱい悩んだけど結局具体的な解決方法なんて何一つ分かりませんでした。
それでも、いま苦しんでいる我が子たちを見て、
もっと必死に考えて方法を探してあげておくべきだったと、後悔しています。
でも、私がくよくよしていても子どもたちは楽にはなりません。
しっかりしなくてはいけません。
親として私は、これから何をしなければならないのか。
じっくり対策を練りたいけど、のんびり考えている暇はないのです。
何故なら2人はすでに
自分の内にある不安に気付きながらも
それに向き合い、
自分の足で未来に向かおうと
歩き始めているから。
あっという間に成長して
親としてのこの気持ちをよそに、私は保護者という立場から身を引く日も遠くないでしょう。
コロナが一旦終息しても、
数年はお出掛けの仕方には気を遣わなければならない日々が続くかもしれません。
制約が多く難しいこともあるかもしれません。
だからこそ、誰も困らないかたちで出来ることを模索していきたいと思います。
今日も読んで頂きありがとうございました☆
最後に、ちょびっとだけ家族ショット(*´艸`*)